0019/05/28

肉のパイ

創刊号だけ特別価格でおなじみ(?)のアレ。今回はピーターラビットということで、思わず買ってしまいました。イラストのタッチが優しい感じでとても良いです。物語も載っていたのですが、そこでピーターの父親が「肉のパイ」にされた、と母親がさらっと言っているところが、なかなかシュールでしたけど。

しかしまぁ、作者がいなくなってしまっても、作品も、そのキャラクターも愛され続けているということは、なんだか素敵なことだと思います。作品を作るうえで、自分の個性や味を出していくことは大事なんですけど、なんといっても誰かに支持されないことには淋しい気もするのですよ。だから、そういう部分も大事なのかな、と思ってがんばっていきたいですね。

ちなみに。
坂本から聞きましたけど、次回作はリューネも出るそうですよ! ということは、もちろんあのキャラクターも……!?

0019/05/22

言葉はいらない?

先日、樹木の鬱蒼と茂る公園を散策中に、
ピロピロポロポロピー♪
という抑揚のあるメロディが頭上から聞こえ、ん? と仰いでみたところ、そこにおわすはジュウシマツ。
ポロッピピピピロポロピー♪
思いのほか美声。
しばらく見ていたら飛び去ってしまいましたが、思わぬ路上ライブに得した気分です。
なにを言っているのかわからないけれど、なんとなく楽しい気持ちになりました。きっとそのジュウシマツもそんな気分だったに違いないと恣意的に解釈しました。

Fogotten Sagaのなかに、もこもこアイス(このネーミングもう少しなんとかならなかったんでしょうか)というトーン(精霊)が出てきます。そいつは「めぇめぇ」しか話せないのですが、アストリアは言葉ではなくそこに込められた想いを感じることで、主張を受け入れることができます。
気持ちでカバー。
心が通じ合うとき、そこに言葉はないのかもしれませんね。

0019/05/12

テストでも問題をよく読んでから

先日、あるカメラを買ったんですよ。
バーバーと撮りまくって、ワクワクが押しよせながらフィルムを現像に出しました。しかし、現像から上がってきた写真は、すべてピンボケ(笑)。さすがに、全部が全部ピンボケというのはあまりにおかしいので、機器の故障を疑いました。
とりあえず、そのカメラとその説明書を見ていたら、どうもレンズがしっかりとはまっていなかったらしい。

説明書には、「カチッと音がするまでレンズを回して取り付けます」と書いてあった。そういえば、どうもレンズがユルユルな感じだとは思っていたのですけどね。いつもの調子で適当にやっていたら、思わぬ盲点があったわけです。

やはり、説明書はちゃんと読まなければダメだなぁ、と感じた出来事でした。

そんな説明書。もちろん、ゲームにも付いてきます。
それは、どのボタンを押せばどうなる、という説明でしたが、RPGにおいては、「Aボタン=決定」「Bボタン=キャンセル」という暗黙の了解があります。そのため、たいていのRPGは説明書を読まなくても、いきなりゲームを始められます(武器や魔法の効果や、ゲームごとの細かい部分は多々ありますが)。

MEET INVADEのゲームは、「RPGツクール」というツールで作っていますが、ゲーム中の操作はきわめてシンプル。戦闘シーンも凝った自作物ではなく、普通のものであるし、フィールドマップがあって、街があって、ごく普通のRPGと同じです。小難しいことを考えずにとりあえずプレイしてね! というスタイルを目指しています。

そういえば、特に説明はしていなかったのですが、「Return to Farland」では、マップのオブジェクト(壺や壁の物など)を調べることでもアイテムが手にはいることがあります。宝箱以外にもアイテムが手に入るというのは、どうも気づきにくい部分だったかもしれません(Forgotten Sagaには、そういうケースはほとんどありません)。
特によくいただく質問に「ハー・グローブはどこにあるのですか?」というものがありますが、これは時期もあるうえ、壁のオブジェクトを調べることで手にはいるので、ある意味では意地悪な感じだったかもしれませんね。

0019/04/30

永遠の記録。

すでに何度も書いていることですが、Return to FarlandやForgotten Sagaでは名前のない人たちにもなるべく設定を用意しました。人類の歴史のなかには、名前のない人のほうがずっと大勢いるからです。その姿勢は、次作でも貫かれるのではないかと思います。

ところで、MEET INVADEの拠点がある首都圏の片隅は、大河ドラマのおかげか最近少しスポットを浴びたりしています。
そんなわけで先日、とても晴れていたので、旧跡を訪ねてきました。武田氏に縁のある古城跡です。
まるで真夏のような気候と、むっとくる草いきれにちょっと辟易しましたが、そのぶんなぜか落ち着きました。

旧跡で佇んでいると、ずっと昔にもそこに人がいたことや、今そんなところに自分が立っていることを少し不思議に思ったりもします。
たとえば千年もまえに、こんなところに人が大勢いたり、だれかと攻防を繰り広げていたり、また隠れて恋をしたりしていたのかと思うと、歴史が文字や記号じゃない生身のものとして感じられるような瞬間があったりもするわけです。

風が過ぎ去るように刹那の淡い夢です。

0019/04/17

ウサギとカメ

だいぶ間隔が空いてしまいましたが、諏訪部です。
新年度も始まり、そろそろ新しい生活にも慣れてきた頃でしょうか。もう少しすれば、今度は五月病なんていう話も出てきたりするんですかね。ま、暗闇に入ってしまったら、焦らず慌てずが基本です。これは、実際に我々が暗いところに入ってしまってもそうですからね。心の暗闇も、同じようなもんです。

さて、たまには制作中のゲームについてのお話をします。
あまり時間が割けないということもあり、亀のスピードなんですが、毎日一歩は歩くようにしています。歩いていればゴールにたどり着けると信じていますので。
で、次回作。世界観は「Return to Farland」や「Forgotten Saga」を引き継いでいます。つまり、ファーランドが舞台のお話になります。いつの時代のファーランドかはまだ言えないのですが、とにかくそんなわけですので、皆さんよくご存じのキャラクターも登場します。
まだまだ開発状況なんて言えるほど進んでいませんが、首をキリンさんにしてお待ちいただければ幸いです。


余談ですが。
先日、株式会社英知出版社より発売されました「ゲーム業界激震!次世代フリーゲームの殿堂」にて、「Return to Farland」が紹介されました。オールフルカラーで、他にも様々なゲームが紹介されています。詳細はおって報告しますが、よろしかったらご覧になってみてください。

0019/04/02

浅き夢見し。

花より鼻で春を感じる人も多いでしょうか。
学生時代、恐ろしいくらい花粉症で鼻づまりは日本海溝ばりだったのですが、なぜか最近はのどが少しイガイガする程度で、その頃の名残はあまりありません。
花粉症は一度なると、一生治らないと聞いたのですが不思議なものです。
閑話休題。
暖かくなってくると、なんとなく気だるいような空気感に、ちょっぴりセンチになったりもします。
春が新しい季節という感覚は昔からあまりなく、厭世的な人間だったためむしろ、春は少し憂鬱だったという記憶があります。変化を嫌う人間の特徴ですね。
今は日々それなりに忙しいので昔ほど感傷的ではなくなりましたが、それでもふとした瞬間に、春が憂鬱だった頃を思いだし、懐かしいような淋しいような気持ちになることがあります。桜をみるといろいろなことを思いだす――そういえば、そういう俳句がありましたね。
近年は、桜をみていると、人生であと何回この花をみるのだろうと、未来について思いふけったりすることもあります。
桜をまえにすると、人生の岐路に立ったような気分になることがあるのです。
過去も未来も小さなことなのかもしれませんが、切ないとはそういうことを言うのかもしれないとか思ったりします。
桜を見たときの気持ちを言葉にするのはとても難しいことに気づきました。

0019/03/22

さくらと酒とバカ

各地で桜の開花宣言も出され、いよいよ春爛漫といった感じです。
桜といえばお花見。お花見といえば宴会。宴会といえば酒。酒を飲み過ぎて、花に酔っているのか、酒に酔っているのかわからなくなってしまうこの時期。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

咲きほこる桜を見ると、とてもきれいなのですが、それと同時に「いとおかし」感情もわきあがってきます。それを強く意識するようになったのは、大人になってからでしょうか。なぜなのかを考えてみると、すぐに散ってしまうから、という単純な理由からではないとも思うわけです。こういう感情を抱く方がいったいどのくらいいるのか統計を取ったわけではないですけど、少なくとも日本人は、桜のイメージの影に潜むそういった感情を何百年も前から感じていたのではないかと勝手に想像しています。まぁ、ユングの言う「集合的無意識」みたいなもん(?)だと理解しています。

しかし、最近ではそんな「いとおかし」感情を感じても、哀しいと暗い気持ちになるだけではなく、それもまたいいんじゃないかと受け入れるようになってきました。

「ファファファファ。光あるかぎり、闇もまた存在するのだ。ウボァーー!!」

っていうRPGのボスキャラの捨てゼリフじゃないですが、確かに闇があってこその光なわけです。
人間だって、完全無欠・パーフェクト超人のような人がいない(と思うのです)ように、ダメだと思う部分も愛することで、また違う考え方ができる、と。

アントニオ猪木氏の「バカになれ」というわけではないですが、桜の下であえてバカになるのも、人生のスパイスとしては大切な黄金体験になるのかもしれませんね。

0019/03/12

L’Oiseau bleu

トピックスをご覧になっていただければ、Return to Farlandのなかに動物のフンのネタがあったりするのがご理解いただけるのですが、それとはまぁ、関係があるのかないのか、とりあえず今日はフンフンの話です。
そんなに汚くないのでお食事中でもなんとかなると思います。
鳥のフン。
たいした話題ではないこと山の如しですが、最近自家用車に鳥のフンがよくついています。駐車している最中にやられているようなのですが、まさに絨毯爆撃。
鳥畜生の的がそれて(狙って?)、ドアのキーを刺す箇所にかまされていたり(一応、キーレスですが)、パワーウィンドウの縁にこびりつく感じで落とされていたりします。ちなみに、ウィンドウを開けたら、フンが車の内部に巻き込まれました。げふ。
鳥類の思考はわかりませんが(まぁ、人間ですら侭ならないわけですから)、娯楽感覚でやってるのだとしたら、曲者です。そういえば、殻を割るために、わざと自動車の走行路に木の実を落とすカラスを見たことがあります。計算?
人類を俯瞰している……?

ところで、家の軒先に、数年まえから、ツバメが巣をつくるようになりました。
春先になると、キッズが誕生し、ギャースカギャースカ大騒ぎをしています。
でも、やかましいなァ、などと思っていると、知らないうちに飛び去っていたりします。
キッズのいなくなった巣は少しだけ物足りない感じになります。
そして、次の春、ふたたびギャースカギャースカしていると、前年に巣立った輩とは限らないですけど、なんとなく「おかえり」という気持ちになります。
うるさいんですけどね。

0019/03/05

街をつくろう!

今回はマップのお話をば。

RPGのマップというものは、まさに箱庭です。プレイヤーは、木や、建物といったシンボルマークの中を歩き回ります。それらのシンボルマークは、ただの図形でしか過ぎないのですが、受け手がそれに意味付けをして考えているわけですね。大げさな言い方をすると。

では、我々が普段(現実世界の)街を歩いているときはどうでしょう? 何も考えずにただ徘徊しているわけではなく、頭の中にはちゃんと鳥瞰図があるわけです。そうでなければ目的地に到着できません。
人間は、それを共有しようということから「地図(マップ)」を作りました。しかし、地図もまた、ただ絵やシンボルマークが記載してあるだけのものであり、地図の見方を知らなければ意味をなさないわけです。

なんだか小難しいような話になってきましたが、両者とも人間の想像力があってこそ成せる業だねぇ、すごいですねぇ、ということです。そういう意味では、ゲームのなかで街を歩いているのも、現実世界で街を歩いているのも、認識としてはあまり変わらないような気もします。だからこそ、ゲームの世界観を楽しめたり、入り込めたりできるわけですけどね。


私は、マップを作成する時には、一歩引いて見る。全体を見渡すということを特に気をつけています。そして、そのマップに広がる物語も想像します。例えば街だったら、あの角を曲がったら、赤い屋根の家があって、その庭には大きな木がある、という具合です。そこでは、人々が日々の生活を送っています。
普段、我々が現実世界でも何気なくすれ違う人々。他人といえば他人ですが、その一人一人にそれぞれの生活があり、人生があり、そんな人々が集まってできたものが街なわけです。
Return to FarlandやForgotten Sagaの住人たちには皆ドラマがありますが、こういう考えのもとに演出をしていますのです。

マップは、いってみればただの背景でありますが、そこを基本として「生きている街」に仕上げるのは大変です。非常に忍耐の要する作業でありますが、納得するまで作り込みます。何から何まで自分の思い通りにできることなんて、そうそうありませんからね。

0019/03/02

サウンド・オブ・サイレンス

卒業式のシーズンです。卒業してますか。卒業しましたか。
その昔、学校行事などが厭だったため、卒業したらさぞすっきりした気分になるのだろうなと、高校在学中は思っていました。尾崎豊的、支配からの卒業。
ですが、いざ卒業を控えた時期になると、意外と感慨はわかず、むしろ宛のない茫洋とした置いてけぼり感を味わったりしました。卒業後のことなど、それほど考えていなかったからです。
そして結局のところ、トラブルは避けたいタイプでしたし、窓ガラスを割ったり盗んだバイクで走ったわけでもないので、「なんとなく周囲の流れに合わせる」みたいな習性はなかなか治らず、中途半端な心意気のまま進路を歩んでいきました。
社会に出てしばらくした頃、その当時の自分を歯がゆく思った時期がありました。あのときちゃんと考えて、ああしていればよかった――そういうやつです。
でも、最近は人生の無駄に関して寛容になってきました。独力ではどうにもならないこと、本当の意味のしがらみなどを理解しつつあるからかもしれません。
昔の自分のこともまた、やがては卒業していくものですね。