0019/03/22

さくらと酒とバカ

各地で桜の開花宣言も出され、いよいよ春爛漫といった感じです。
桜といえばお花見。お花見といえば宴会。宴会といえば酒。酒を飲み過ぎて、花に酔っているのか、酒に酔っているのかわからなくなってしまうこの時期。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

咲きほこる桜を見ると、とてもきれいなのですが、それと同時に「いとおかし」感情もわきあがってきます。それを強く意識するようになったのは、大人になってからでしょうか。なぜなのかを考えてみると、すぐに散ってしまうから、という単純な理由からではないとも思うわけです。こういう感情を抱く方がいったいどのくらいいるのか統計を取ったわけではないですけど、少なくとも日本人は、桜のイメージの影に潜むそういった感情を何百年も前から感じていたのではないかと勝手に想像しています。まぁ、ユングの言う「集合的無意識」みたいなもん(?)だと理解しています。

しかし、最近ではそんな「いとおかし」感情を感じても、哀しいと暗い気持ちになるだけではなく、それもまたいいんじゃないかと受け入れるようになってきました。

「ファファファファ。光あるかぎり、闇もまた存在するのだ。ウボァーー!!」

っていうRPGのボスキャラの捨てゼリフじゃないですが、確かに闇があってこその光なわけです。
人間だって、完全無欠・パーフェクト超人のような人がいない(と思うのです)ように、ダメだと思う部分も愛することで、また違う考え方ができる、と。

アントニオ猪木氏の「バカになれ」というわけではないですが、桜の下であえてバカになるのも、人生のスパイスとしては大切な黄金体験になるのかもしれませんね。

0019/03/12

L’Oiseau bleu

トピックスをご覧になっていただければ、Return to Farlandのなかに動物のフンのネタがあったりするのがご理解いただけるのですが、それとはまぁ、関係があるのかないのか、とりあえず今日はフンフンの話です。
そんなに汚くないのでお食事中でもなんとかなると思います。
鳥のフン。
たいした話題ではないこと山の如しですが、最近自家用車に鳥のフンがよくついています。駐車している最中にやられているようなのですが、まさに絨毯爆撃。
鳥畜生の的がそれて(狙って?)、ドアのキーを刺す箇所にかまされていたり(一応、キーレスですが)、パワーウィンドウの縁にこびりつく感じで落とされていたりします。ちなみに、ウィンドウを開けたら、フンが車の内部に巻き込まれました。げふ。
鳥類の思考はわかりませんが(まぁ、人間ですら侭ならないわけですから)、娯楽感覚でやってるのだとしたら、曲者です。そういえば、殻を割るために、わざと自動車の走行路に木の実を落とすカラスを見たことがあります。計算?
人類を俯瞰している……?

ところで、家の軒先に、数年まえから、ツバメが巣をつくるようになりました。
春先になると、キッズが誕生し、ギャースカギャースカ大騒ぎをしています。
でも、やかましいなァ、などと思っていると、知らないうちに飛び去っていたりします。
キッズのいなくなった巣は少しだけ物足りない感じになります。
そして、次の春、ふたたびギャースカギャースカしていると、前年に巣立った輩とは限らないですけど、なんとなく「おかえり」という気持ちになります。
うるさいんですけどね。

0019/03/05

街をつくろう!

今回はマップのお話をば。

RPGのマップというものは、まさに箱庭です。プレイヤーは、木や、建物といったシンボルマークの中を歩き回ります。それらのシンボルマークは、ただの図形でしか過ぎないのですが、受け手がそれに意味付けをして考えているわけですね。大げさな言い方をすると。

では、我々が普段(現実世界の)街を歩いているときはどうでしょう? 何も考えずにただ徘徊しているわけではなく、頭の中にはちゃんと鳥瞰図があるわけです。そうでなければ目的地に到着できません。
人間は、それを共有しようということから「地図(マップ)」を作りました。しかし、地図もまた、ただ絵やシンボルマークが記載してあるだけのものであり、地図の見方を知らなければ意味をなさないわけです。

なんだか小難しいような話になってきましたが、両者とも人間の想像力があってこそ成せる業だねぇ、すごいですねぇ、ということです。そういう意味では、ゲームのなかで街を歩いているのも、現実世界で街を歩いているのも、認識としてはあまり変わらないような気もします。だからこそ、ゲームの世界観を楽しめたり、入り込めたりできるわけですけどね。


私は、マップを作成する時には、一歩引いて見る。全体を見渡すということを特に気をつけています。そして、そのマップに広がる物語も想像します。例えば街だったら、あの角を曲がったら、赤い屋根の家があって、その庭には大きな木がある、という具合です。そこでは、人々が日々の生活を送っています。
普段、我々が現実世界でも何気なくすれ違う人々。他人といえば他人ですが、その一人一人にそれぞれの生活があり、人生があり、そんな人々が集まってできたものが街なわけです。
Return to FarlandやForgotten Sagaの住人たちには皆ドラマがありますが、こういう考えのもとに演出をしていますのです。

マップは、いってみればただの背景でありますが、そこを基本として「生きている街」に仕上げるのは大変です。非常に忍耐の要する作業でありますが、納得するまで作り込みます。何から何まで自分の思い通りにできることなんて、そうそうありませんからね。

0019/03/02

サウンド・オブ・サイレンス

卒業式のシーズンです。卒業してますか。卒業しましたか。
その昔、学校行事などが厭だったため、卒業したらさぞすっきりした気分になるのだろうなと、高校在学中は思っていました。尾崎豊的、支配からの卒業。
ですが、いざ卒業を控えた時期になると、意外と感慨はわかず、むしろ宛のない茫洋とした置いてけぼり感を味わったりしました。卒業後のことなど、それほど考えていなかったからです。
そして結局のところ、トラブルは避けたいタイプでしたし、窓ガラスを割ったり盗んだバイクで走ったわけでもないので、「なんとなく周囲の流れに合わせる」みたいな習性はなかなか治らず、中途半端な心意気のまま進路を歩んでいきました。
社会に出てしばらくした頃、その当時の自分を歯がゆく思った時期がありました。あのときちゃんと考えて、ああしていればよかった――そういうやつです。
でも、最近は人生の無駄に関して寛容になってきました。独力ではどうにもならないこと、本当の意味のしがらみなどを理解しつつあるからかもしれません。
昔の自分のこともまた、やがては卒業していくものですね。